這篇是在昨天Yahoo Japan的鎌田引退儀式文底下的一篇相關舊聞,
刊出的時間是2012年10月12日,由報導韓國職棒26年以上,
並從1990年就開始報導台灣職棒的木村公一先生所執筆。
原文連結:http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimurakoichi/20121012-00022053/
『まだ、終わりじゃないから……』
木村 公一 | スポーツライター・作家
2012年10月12日 12時14分
原文標題:『還不是結束的時候』
~~明るい未来が欲しくて 僕らは今を飛ばして先を見ようとする。
色あせない過去にしがみついてばかり。それでも 今という時は美しいから。~~
(キマグレン『リメンバー』より。)
~~我們為了想要更美好的未來,而一直讓「現在」流逝,嘗試去看到未來;
一直想著美好的過去;就算如此,名為「現在」的瞬間也是很美好的。~~
引用自日本樂團キマグレン(Kimaguren)的歌曲「Remember」
原曲PV: http://youtu.be/3c77SB2IalY
『野球はこの1年限りと決めて来た』
「下定今年(2012)是打棒球的最後一年之決心而來的」
9月某日、台湾・台南市立棒球場。統一ライオンズの本拠地。試合開始前の6時半が近
づいても、掲示板の気温はまだ34度を表している。ジットリとまとわりつく、南国特有
の湿気が身体を包む。
9月某一天,在台灣台南市立棒球場,統一獅子軍的主場;
雖然時間已經接近要開始比賽的晚上6點半,告示板上的溫度仍然顯示著34度;
南國特有的濕氣將身體包圍住。
「なんか最近、だるいんですよね」
中継ぎ陣の練習を見遣りながら、ウェート・トレの順番を待つ鎌田祐哉(33歳)は呟い
た。
「1年の疲れが出てきた感じ。ストレス解消できたらいいんだろうけど、なかなかでき
ないし……」
そしてどんよりと垂れ込めた雲の浮かぶ空に目を移した。
一邊看著中繼投手們的練習,一邊等待著做重量訓練排序的鎌田祐哉(33歲)說出:
『最近總覺得身體很疲倦;感覺好像一整年的疲勞一口氣湧現出來;
雖然如果能把壓力消除掉的話,應該就沒關係,但一直沒辦法把壓力消除掉』,
說完之後,鎌田就一臉消沈的看著天空。
鎌田はデジモノ好きだ。愛機は2003年頃からHDを交換しながらも使い続けるMacと
、ipad。バス移動がほとんどの台湾では、車中、DLした音楽やアニメで時間を過
ごしてきた。お気に入りはアニメの『交響詩篇・エウレカセブン』。50話のストーリ
ーをもう3回は観たろうか。スカイプやSNSで、日本の家族や友人と連絡も容易に取
れる。とはいえ異国での暮らしは、目に見えぬ、言葉に表しにくいストレスを溜める。
鎌田很喜歡3C產品;他所用的是在2003年時曾換過硬碟,並繼續使用至今的Mac與iPad;
在幾乎是以球團巴士為主要移動工具的台灣,
鎌田總是在車上欣賞著他所下載的音樂或動畫來打發時間;
而他最喜歡的動畫「交響詩篇・エウレカセブン(台譯:交響詩篇艾蕾卡7),
全部50集的故事,他可能已經看過3遍了;而透過Skype或社群服務網站,
鎌田也能很輕鬆的與住在日本的家人、朋友取得連繫;
但縱使如此,生活在異國,還是有著看不見且無法以言語表達的壓力存在。
それでなくとも、疲れていても無理はなかった。
就算不是這樣,他會感到疲倦也是有原因的。
今季、初めて海を渡った鎌田の活躍は圧巻だった。開幕から11勝0敗というケタ違いの
活躍。当然のごとく統一は、前後期制の台湾で前期ダントツの優勝を勝ち得た。184
センチの長身から角度のあるストレートと、鋭く曲がり落ちるスライダーにチェンジア
ップ。日本時代と投球スタイルに違いはなくとも、それらを丁寧に内外角に配せば、台
湾の打者たちを翻弄するに十分だった。7月のオールスターには、ファン投票でトップ
も飾った。
本季第一次到海外打球的鎌田,表現的非常精彩;從球季開幕以來,
就創下11勝0敗的突出戰績;而理所當然的,統一隊也在分為上、下半季的台灣職棒,
以遙遙領先對手的戰績拿下上半季冠軍;鎌田以其184公分的身高,
投出略有角度的直球、以銳利角度變化的滑球,以及變速球等球種;
雖然投球姿勢與日職時代並無差異,但搭配補手仔細的內外角配球的話,
已足以讓他對付台灣的打者們;而7月的明星賽時,因為球迷們的投票,
讓鎌田成為(白隊投手)最高票。
元楽天で、統一の投手コーチを務める紀藤真琴は言う。「台湾は日本に比べて一段下に
見られがちだけれど、11連勝なんて簡単にできるものじゃない。ましてやエース格とし
て先発することは、責任を負って投げるということ。精神的な負担も大きかったはずで
す」
前樂天隊暨現任統一隊投手教練的紀藤真琴先生說:
『雖然有台灣的實力比日本低一階的看法,但是要能夠11連勝也不是很容易達成的;
更何況被要求以王牌之姿擔任先發投手,就是要他負起責任投一場好球;
精神層面的壓力應該也是很龐大的。』
そして、ローテを1年間通して守ってきたのだ。鎌田は言った。だるさと疲れを振り払
うように。
「でもあと少しですから、想いでづくりも」
これまで幾人もの選手が、日本から台湾にやって来た。ある者は1年でも長くユニフォ
ームを着続けたいがために。ある者は成功し、日本球界へ戻るキッカケを求めて。
然後鎌田在這一年順利守住了自己的先發輪值;以想要甩掉身體的疲倦與勞累般,
鎌田說:『但是只要再撐一會,也為了替自己留下美好回憶。』
至今為止,有不少日本選手從日本來到台灣;有些人是為了追求至少1年,
或者能夠更長時間的繼續穿著球衣;有些人是希望藉由在台灣的成功,
獲得重返日本職棒的契機。
彼は、そのどちらでもなかった。鎌田は“確かめるため”に、この1年を最後の野球人
生と考え、海を渡った。
但鎌田並不屬於上述兩類;鎌田是「為了確定自己的想法」,
並抱持把這一年當成自己棒球生涯的最後一段之想法,而跨海來到台灣。
『やるならば、集大成のつもりで』
『要做的話,就抱持是集自己棒球人生之精華的態度』
昨季オフ、楽天から自由契約の通告を受けた。前年のシーズン途中にトレードで移籍し
ていたが、一度も1軍から声はかからなかった。だから通告にも、大きな驚きはなかっ
た。心の中で覚悟もあった。「これで野球は終わりだ」。鎌田はそう決めた。結婚もし
ている。第二の人生ってヤツに踏み出す潮時なのだ、と。合同トライアウトも薦める人
がいて受けはしたが、どの球団からも連絡はなかった。野球に対する気持ちが、萎えて
いくのがわかった。
去年(2011)季末,鎌田收到了來自樂天隊的解約通知;
在前年(2010)季中,鎌田雖然因為交易而轉隊到樂天隊,但是不曾被叫上一軍過;
所以收到解約通知時,鎌田並不是很驚訝;而他心中也有所覺悟了;
鎌田下了「就這樣結束棒球生涯吧」的決定;自己也已經結婚了;
是該邁向所謂的「第二人生」之關鍵時刻了;雖然有接受推薦而去參加聯合測試,
但是沒有任何一支球隊與鎌田連絡;而鎌田也知道他對於棒球的熱愛正在萎縮。
もとより、それはヤクルトにドラフト2位で入団した頃から「クビになったら未練を残
さず、野球を辞めよう」と考えていた。解雇されてもどん欲に他チームでの機会を求め
、移籍し、渡り歩く者もいる。鎌田には、そうした考えはなかった。「クビということ
は、通用しないと烙印を押されるようなもの。それでもし他球団から声がかかったとし
ても、先は知れている」。ポジティブに野球人生を生き抜こうとする猛者たちに、少し
だけ羨ましさも感じる。しかし野球をしている時間より、その後の人生の方が長いのだ
。ならば、潮時は見誤りたくない。
其實打從當年(2000),以選秀第二輪的資格加入養樂多隊以來,
鎌田就抱持著「被球隊開除的話,不要再有任何不甘心,直接放棄棒球」的想法;
雖然有些球員就算被原球隊解約,也會拼了命的去其他球隊找機會,
然後就這樣不斷的轉隊以繼續自己的棒球生涯;
但是鎌田沒有那樣的想法;鎌田覺得「被球隊解約,
就代表被蓋上自己的實力不足以在職棒圈生存的烙印;縱使之後有被其他球隊錄用,
其未來也是已知的了」;對於能以積極、樂觀的態度在職棒圈生存的勇者們,
鎌田對他們有著些許羨慕的感覺;但是相較於在打棒球的時間,
那之後的人生路是更加漫長的;所以鎌田不希望自己錯失時機。
冷静。堅実。謙虚。どんな言葉が当てはまるかは、わからない。ただ現役時代から、そ
んな想いを心の隅に置いていた。そのためか、無為な誤解も受けた。「やる気が見えな
い」。そう一言で断罪されたこともあった。マウンドに行けば燃えるし、いつも、精一
杯やっていたつもりだった。なのに。度重なるヒザや肩の故障経験も、鎌田をより慎重
な性格にさせただろうか。ただ第二の人生は、必ずしも思ったようには転がらなかった
。新たな仕事がすぐに見つかるほど楽観はしていなかったものの、一般社会の現実は、
鎌田の想像以上にシビアだった。心を決め、ハローワークにも足を向けた。しかし、仕
事はない。解雇通告を受けてから一ヶ月、二ヶ月。「無職」の時間は、33歳の自身を不
安にさせるだけだった。
冷靜、堅忍、謙虛,該用哪個字眼去形容鎌田呢?我不知道;
但是從日職的現役時代開始,鎌田就把這樣的想法放在內心某處;
也因為這樣,鎌田招致他人的誤解;曾被別人直言:『看不到你(鎌田)的幹勁』;
但鎌田一上到投手丘就會盡力燃燒自己,總是抱持著要盡全力做好的態度;
然而因為多次的膝蓋與肩膀的受傷經驗,使得鎌田的性格變得更加慎重;
但第二人生卻無法如鎌田所想般,那麼順利轉換過去;
雖然鎌田沒有樂觀到覺得能夠立刻找到新工作,但是一般社會的現實層面,
遠比鎌田所想像的還要嚴苛;下定決心,並且勤跑求職中心,但就是沒有工作;
從收到解約通知以來過了一個月、兩個月;
「無業」的這段時間,只有讓33歲的鎌田更加不安。
そんな年明けたある日、ヤクルト時代の先輩から連絡が入った。「台湾のチームのテス
トを受けられるように頼んだ。行ってこい」
就在這樣的情況下,過了新年的某一天,養樂多隊時代的前輩連絡鎌田說:
『我已經幫你喬到可以參加台灣球隊的測試了,去台灣參加測試吧。』
ありがたいと思う反面、萎えた野球の心ともう一度向き合えるのか。自信はなかった。
テストを受けられるという光明より、戸惑う気持ちが正直だった。それに、もし合格し
ても1年でまたクビになったら。それだけ一般社会に入っていくのが遅くなりはしない
か。いや、かりに何年プレー出来たとしても、いつかは必ず野球を辞めるときが来るの
だ。それが、今なんじゃないか……。
雖然對前輩抱持著感謝的想法,但另一方面,
鎌田也擔憂自己能否再一次好好面對那已日漸萎縮的對於棒球之熱愛;鎌田沒有自信;
相較能夠接受球隊測試的好消息,鎌田實際上抱持著迷惘的心情;
而且如果就算通過測試,卻又在1年後被解約的話……;
這樣不就使自己進入一般社會的時間又變得更晚了嗎;
不對,不管能夠再打幾年職棒,總有一天自己是必須離開職棒的;
這樣的話,現在不就是離開職棒的時機嗎……
1月半ば、台湾の統一ライオンズの練習に参加した。合格。ただし外国人投手は他にも
3人合格していた。つまりは4人のうちの1人。出場登録は3人と聞き、同時に自分は
4番目の合格なのだとも知った。「だから日本に戻ってきても、素直に入団を喜べなか
った」。
1月中旬,鎌田參加了在台灣舉辦的統一獅測試會;鎌田通過測試了;
但是另外也有3名其他國籍的投手通過測試;所以鎌田是通過測試的4名投手當中的1個;
而在聽到一軍只能登錄3名洋將的同時,鎌田也知道自己是第4個通過測試的;
鎌田:『所以之後就算回到日本,也沒辦法對於自己能加入統一隊乙事感到高興。』
しかし一般職を探せなかった鎌田に、“野球の運”は味方をした。2月のキャンプに正
式参加して3月を迎えた頃、他の外国人投手がケガで解雇になったのだ。対照的に鎌田
はオープン戦で内容ある登板を示し、開幕時には先発の3番手に“昇格”。
鎌田は思った。「どうせやるなら、日本のプロで11年間やって来たことが間違いでなか
ったと思えるシーズンにしよう」
但是對於找不到一般工作的鎌田,「棒球之神」幫了鎌田一把;
在正式參加2月的春訓並快要進入3月時,其他的外籍投手因為受傷而被解約了;
相對的,鎌田在熱身賽時就投出不錯的表現,並在球季開幕時被選為3號先發;
鎌田心想:『既然決定要做,那麼就讓本季成為證明自己在日職的11年來,
所做的事情與經歷並不是錯誤的。』
いわば自身の集大成としてのマウンドに。鎌田の心から、迷いが消えた。
自身の最初の先発は3月18日、対兄弟エレファンツ。鎌田はこの試合で6回3分の2を
投げ無失点で初勝利を挙げると、同24日には興農ブルズ戦で7回無失点で2勝目を得る
。そして同30日には兄弟相手に1失点の完投勝利。以後、投げれば抑え、白星が並んで
いった。
換句話說,就是要讓本季成為自己職棒生涯最精華的一年;
自此,鎌田的心中已沒有迷惑;鎌田的第一場先發是在3月18日對兄弟象;
鎌田在這一戰投出6又2/3局無失分的表現並拿下首勝,同月24日對興農牛,
以7局無失分的表現拿下第2勝;然後又在30日時,對兄弟象投出失1分完投勝的表現;
之後鎌田不斷上場壓制對手,並不斷的獲勝。
鎌田の今季の活躍で評価されるべきは、表向きの連勝ばかりではない。ほとんどの先発
機会で7イニング以上を投げ、勝ち星がつかずとも試合を作っていた点にある。統一の
監督、元日本ハムの中島輝士もこう認める。「長いイニングを任せられたことは大きな
意味があった。ベンチも試合の計算が出来る。勿論、中継ぎ陣を休ませることにもなっ
た。数字だけでは計れない貢献もしてくれましたよ」
對於鎌田的表現,真正該評價的部份並不是其表面上戰績的連勝;
而是鎌田先發時幾乎都投7局以上,縱使無法拿下勝投,也能替球隊留下贏球的機會;
前日本火腿隊,現任統一獅總教練的中島輝士先生也認同這點,並表示:
『鎌田能夠吃下較多局數是有很大的意義;我們教練團也能夠去思考戰術;
當然也替中繼投手群們製造休息的機會;故對球隊的貢獻不是能以其勝投數計算的。』
その積み重ねが、前期だけで無傷の11連勝に繋がった。登板11試合目での10勝は、台湾
での開幕からの「最短到達記録」を更新。11連勝は1993年に野中尊制(元日本ハム)が
作った9連勝という日本人としての記録をも更新した。
而鎌田這表現也與其在上半季拿下11連勝習習相關;出算第11場就拿下10勝,
也刷新了台灣職棒的「球季開幕以來最快達成紀錄」;
同時鎌田的11連勝也刷新了1993年野中尊制選手(前日本火腿),
所寫下的日本選手在台灣職棒的9連勝紀錄。
鎌田祐哉という漢字名は、中国語で「LiauTian YoZai」と読む。カタカナにすれば、
リャンテェン・ヨウザイという感じか。「子供にもカマタじゃなく、リャンテェン!っ
て呼ばれるようにもなったんです。サイン書くときも、1番に僕のところに走ってきて
待ってくれる」。嬉しくないはずはなかった。
鎌田祐哉的漢字,在中文唸作「ㄌㄧㄢˊㄊㄧㄢˊㄧㄡˋㄗㄞ 」(請見諒以注音表示);
將此讀音轉為日文片假名的話,類似「涼天祐在」(為表讀音差異,請見諒)的唸法;
鎌田:『小孩子們也不是叫我Kamada(鎌田的日文讀音),而是叫我「涼天」;
而在要選手們的簽名時,也是都先跑來找我要簽名』;鎌田不可能不為此覺得高興。
台湾で抜群の成果を表し、日本にカムバックしたい……。そんなストーリーを他人が勝
手に描くことは簡単だ。しかし、現実の鎌田は違った。11連勝しても、今シーズン限り
と決めた想いに変わることはなかった。むしろ好投すればするほど、もう1人の自分が
言った。「調子に乗るなよ」「勘違いしちゃいけないぞ」。間違っても“オレ、やれる
じゃん”なんて思えない。
在台灣拿出極佳表現,然後想要回日本職棒;其他人要自行想像這樣的故事是很容易的;
但是現實中的鎌田不是這樣;就算拿下11連勝,
鎌田也沒有改變將本季設定為職棒生涯的最後一年的想法;
相對的,越是在球場上表現的好,鎌田體內的另一個自己就會說:『別太驕傲了』、
『別搞錯情況囉』;就算一時太開心,也不會產生「其實我還蠻強的」的想法。
なぜだろう。投手にとって、いやプロ野球選手にとって成績は、すべてといっていい。
その成績が素晴らしいのに、そんな自分に自信を持てない。
為什麼呢?對投手而言,不,對職棒選手而言,成績可說是他們的全部;
雖然成績很棒,但卻無法讓創造出這樣成績的自己抱有自信。
鎌田は思う。「もし二十代だったら、ストレートに野球にしがみつきたいって思えたか
も知れない。でも33歳になってしまうと、現実に目がいってしまう」。脳裏には、職探
しで困惑した時期の不安がこびりついて離れない。最悪のことを想定して生きていかね
ばならないという意識も強くなった。生来、自分を抑えるような気質もある。
鎌田的想法是:『如果我還是20多歲,那麼我可能會牢牢的想著棒球這件事;
但是我已經33歲了,我必須要看現實的一面』;
當初被解約後,求職且迷惘的那段時期所產生的不安是緊緊牢記在他腦海之中;
先預想好在最糟糕的情況下,該如何生存下去的想法變得強烈;
也許鎌田體內那股壓抑自己的氣質是他與生具來的。
「それに」と、鎌田は続けた。
「僕、内心、野球に向いてないと思ってるんです。それが、自信を持ち難くさせている
一番の理由かも知れない」
鎌田說:『而且,我內心一直覺得我不適合職棒圈;
也許這是我無法產生自信的最主要原因。』
『僕、野球に向いてないんですよ』
『我不適合職棒圈』
例えばスライダーを投じるとする。アウトコースギリギリのところでボールにしたい。
しかし、鎌田はそんなときに限って、ボール一個ぶん、中(なか)に入ってしまうのだ
という。
舉例來說,投滑球的時候,會希望球是投在外角的臨界點上;
但是鎌田在這樣的時候,反而會讓球往紅中方向進來一個球身。
「プロで生き残る投手って、制球ミスをするにしても、外(そと)に外れるものなんで
す。それならボールになるだけで済む。でも中に入るということは、甘く入るというこ
と。それではプロじゃ通用しない」
鎌田:『能夠在職棒生存下來的投手而言,就算失投了,球也會往外圍跑;
而這樣子頂多是被計壞球;但是往紅中方向跑的話,就會變成對打者有利的失投球;
這樣是無法在職棒圈生存下來的。』
ボール一個ぶんの甘さ。それが日本のプロ野球で11年、ユニフォームを着てきた鎌田の
、プロというものの“定義”だった。その精緻さが自らには欠けている。だから、野球
には向いていない。「完璧を求めすぎてるかな、と思うときもありました。でも日本で
結果を出せなかったということは……」。
「一個球身的差距」,這是在日職待了11年的鎌田,對於「職業選手」的定義;
而自己缺乏這樣的精緻控球,所以自己不適合職棒;
鎌田:『雖然也有覺得自己是否太過追求完美的時候;
但是我無法在日職拿下好成績,所以……』
鎌田のほろ苦い記憶の中には、いくつかのマウンドがある。ヤクルト時代、ここで抑え
ていれば、ここで結果を残していれば、次に繋がり、1軍に定着出来ただろうという光
景が。
在鎌田他那略有甘苦的記憶之中,曾經有過幾次這樣的經驗;
在養樂多隊的時代,也曾發生過「只要在這裡壓制住對手、只要在這裡留下好結果,
就能夠創造出下次的機會,並能夠留在一軍了」的情況。
鎌田は、そうした光景を心に抱え、あるいは言い訳したかったことも呑み込み、台湾に
やって来た。同じ過ちを繰り返さないために。時を戻すことは出来ない。けれどあのと
きのマウンドの代わりに、台湾という異国のマウンドで、もう一度、目一杯に腕を振っ
て……。
鎌田將這些情況牢記於心,或是把想要說出來的藉口也吞下肚,而來到了台灣;
為了不讓自己再犯下同樣的錯誤,且時光也無法倒流;
在取代過往機會的台灣這個外國環境,再一次,竭盡自己的力量、振臂高揮吧。
一度、野球を辞めた。だから野球のなくなった時間の怖さというものを、知っている。
一度、野球を辞めた。だから一試合の重みも、一球の意味も、鎌田は知っている。その
結晶が、今季の一試合、一試合に刻まれている。
因為曾經放棄過棒球,所以知道沒有棒球的時間是多麼的可怕;
因為曾經放棄過棒球,所以知道每一場比賽的重要性,與每一球的意義;
而這些經驗的結晶就紀錄在本季的每一場比賽上。
「実際には打たれた試合も、悔しい投球もありました。でもこの1年、台湾で野球して
良かったと思えた。記録を作れたことも喜ばしいし、誇りだし。もし誰かが“それは台
湾のことだろ”と言ったとしても、僕は誇りに思う」。
鎌田說:『實際上有被對方打的很慘的比賽、也有很後悔的失投球;
但是今年能夠在台灣打棒球,我覺得很棒;能夠留下紀錄也很高興,也讓我覺得自豪;
縱使被別人說『那是因為你在台灣打球』,我也依然覺得很自豪。
鎌田には好きな曲がいくつもある。なかでも、キマグレンの『リメンバー』の歌詞がお
気に入りだ。楽天時代には、出場時のテーマ曲にもしたほどだった。
~~明るい未来が欲しくて、僕らは今を飛ばして先を見ようとする。
色褪せない過去にしがみついてばかり。それでも今という時は美しいから~~
鎌田喜歡的歌曲有很多首,但這之中,他特別喜歡キマグレン「Remember」的歌詞;
在樂天隊的時候,甚至把這首歌設定為他的登場主題曲;
~~我們為了想要更美好的未來,而一直讓「現在」流逝,嘗試去看到未來;
一直想著美好的過去;就算如此,名為「現在」的瞬間也是很美好的。~~
アップテンポな心地よいリズムに、ともすれば聞き過ごしてしまいそうな歌詞。だが、
言葉たちは前向きに、確かなものがなんであるかを、訴えている。そしてこの曲は、こ
う結んでいる。
~~何度くじけたとしても、僕らは精一杯今を生きてゆきます~~
較快的曲調搭上讓人覺得舒服的節奏,與可能聽過就忘的歌詞;
但是其歌詞以積極、樂觀的態度,訴說著堅定的意念;
而這首歌的結尾是這樣唱著的:
~~不論挫折多少次,我們都會竭盡全力的活在當下~~
鎌田はいう。「僕はこう解釈しているんです。人は不安な先のことより、過去を美化し
てしまいがち。でも、今を大切に生るべきなんだって。二度と戻らない、今を」
まるで今季の鎌田を表しているように思えた。
鎌田說:『我是這樣解釋這首歌的歌詞的;人們相較於有所不安的未來,
有美化過去事物的傾向;但是我們應該以重視當下的態度去生活;
因為「當下」這個瞬間是無法重來的』;而這就像是本季的鎌田。
来季、鎌田が再びユニフォームを着ているかどうか、わからない。それは野球という仕
事の宿命でもある。鎌田の選択もある。
我不知道明年鎌田能否再度穿上球衣;但這就是「職棒」這份工作的宿命;
而這也是鎌田的選擇。
「でも、どういう形であれ野球というものには携わっていきたいです。それと中国語を
話せるようにもなりたい。日本に戻ったら、語学学校にも通いたいと思ってます。外国
語に関心を持つなんて、台湾に来なければ思いもつかなかったこと。それも僕には収穫
でした」
異国の地が、少しだけ鎌田を変えた。
鎌田說:『但是不論是怎麼樣的形式,我都希望能與棒球留下一些關係;
然後我也希望讓自己學會講中文,回去日本之後,我想去上語言學校;
如果沒有來台灣的話,我不會想到我會對外文產生興趣;這也是我的收獲』;
異鄉也讓鎌田有所變化了。
鎌田は前後期通算して16勝(7敗)を残し、最多勝のタイトルを獲得した。10月13日か
らは7戦4勝制の台湾シリーズに臨む。それに勝ち台湾で総合優勝を遂げれば、11月に
韓国・釜山でのアジア・シリーズも控えている。そこでは日本一となったチームとも対
峙することになる。
鎌田以全年16勝(7敗)的戰績拿下了勝投王;而10月13號起,
7戰4勝制的台灣職棒總冠軍戰也將要開始;如果在台灣職棒總冠軍戰勝出的話,
就能夠參加11月在韓國釜山舉辦的亞洲職棒大賽;也將在那裡與日本第一的隊伍對戰。
だから、まだ終わりじゃない。
まだ、終わりじゃないから……。
それは来年34歳となる彼の人生はもちろん、鎌田祐哉という、投手の人生も。
所以還不是結束的時候;還沒有到結束的時候;
不論是明年就要34歲的鎌田的人生,與鎌田祐哉這位投手的人生。
---翻譯文完---
給抄昨天那篇的,你不是第一個抄我翻譯文的,我想你也不會是最後一個。