http://www.news-postseven.com/archives/20150212_302687.html
会津藩からの視点で描かれた前々回のNHK大河ドラマ『八重の桜』では、長州藩がテ
ロリスト然と描かれて賛否両論を巻き起こした。今回の大河『花燃ゆ』は一転して長州
が主役。それに穏やかならぬ思いを抱いているのが群馬県民だ。福島県民ならともかく
、なぜ群馬県が? それは大沢たかお演じる「ヒロインの夫」にまつわる禍根が理由だ
った。
大沢たかおが演じる「小田村伊之助」は、ヒロイン・文の再婚相手で、後に「楫取素
彦」と改名して初代群馬県令(現在の県知事)となった人物。そんな楫取が猛反発を受
ける理由は、やはり県庁所在地を高崎市から前橋市に移したことが大きい。
群馬県一帯は古くは「上野国」「上州」と呼ばれていたが、江戸時代は前橋藩、高崎
藩などに分かれ、維新後も1871年(明治4年)の廃藩置県で前橋県や高崎県など9県に分
かれた。その後紆余曲折を経て1876年に群馬県に統一されるが、長らく別の藩だったこ
ともあり前橋・高崎両地域の対抗意識は強い。その対立をより際立たせたのが県庁移転
問題だった。
群馬県となった当初、県庁機能は高崎市に置かれていた。しかし、当時の高崎市は高
崎城が兵部省の管轄に入っていたこともあり、県庁舎を置くのに十分な建物がなく、各
部署が別々の建物に分散していた。そのため県政に滞りが生じることが少なくなかった
。
そんななか持ち上がったのが、前橋市への県庁移転だった。前橋市文化国際課の手島
仁・歴史文化遺産活用室長がいう。
「当時、生糸生産で豊かになっていた前橋市民が寄付を募り、県庁誘致運動を起こした
のです。当時の金額で2万6000円、現在の貨幣価値では30億円に相当する額です。それ
に楫取県令が応じ、1876年(明治9年)に仮庁舎を前橋に置いたのです」
言うなれば“県庁買収”である。当然、高崎市民は猛反発。その際に楫取は「地租改
正が終わったら、県庁を高崎市に戻す」と市民に話したと伝えられている。しかし結局
、県庁が高崎に戻ることはなく、1881年(明治14年)には内務省から群馬県庁を正式に
前橋に置くという布告が出された。
それに「約束が違う」と怒った数千人の高崎市民は前橋の県庁を包囲した。しかし群
馬県史によれば、楫取は病気を理由に面会を拒否。翌日には高崎市民が前橋市内をデモ
行進する騒ぎとなった。「裏切り者」と罵られたのはこの経緯があったからだ。
楫取ら長州出身者に批判的な声が上がる背景には、戊辰戦争から明治にかけての長州
藩への複雑な思いもある。高崎市在住で共愛学園前橋国際大学名誉教授(近代日本政治
史)の石原征明氏がいう。
「戊辰戦争時、高崎藩主は明治新政府の岩倉具定・総督軍を土下座して迎え入れ、1万
両と武器・食料を差し出した屈辱的な歴史がある。その後も明治政府の命令には意に沿
わないものでも従わざるを得なかった。当時の県庁の役人はすべて新政府側の人間で、
県令が楫取だったこともあって長州出身者が最も多かった。そうした群馬の人々の不満
が噴出したのが、県庁移転のデモ行進だったわけです」
高崎市在住の80代男性がいう。
「今回の大河は安倍首相のゴリ押し企画という報道もあったが、それが本当なら長州の
やりたい放題は今も昔も同じということ。もし今後、大沢たかおの楫取県令が“富岡製
糸場を立て直して群馬を救ったヒーロー”と描かれて、県庁問題で逃げたことは描かれ
ないのであれば黙ってはいられません」
楫取の玄孫で「ぐんま『花燃ゆ』プロジェクト推進協議会」名誉顧問の楫取能彦氏は
こう語る。
「県庁移転の際の素彦は“あっちを立てればこっちが立たず”で苦しい立場だった。本
人も辛かったのでしょうが、ベストの選択をしたと思います。とはいえ高崎の人々から
恨まれていることもよくわかる。今後、群馬に行った素彦がどう描かれるか、ヒヤヒヤ
ものです(笑い)」