有關道三的出身,近年來在編撰岐阜県史時,意外發現了六角義賢寫給蒲生定秀信件中,
說明阻止六角義治迎娶齋藤義龍之女為妻的原因,強調齋藤家發家歷史不善的因素。我數
年前已有聽聞,只可惜一直無緣看到這封書信,如今終於尋獲,甚感歡喜。
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重點就在前兩段所寫的,
彼斉治身上之儀 祖父新左衛門尉者、京都妙覚寺法花坊主落にて、西村与申、長井弥二
郎所へ罷出、濃州錯乱之砌、心はしをも仕候て、次第ニひいて候て、長井同名ニなり、
又父左近太夫(斎藤道三)代々成惣領を討殺、諸職を奪取、彼者斉藤同名ニ成あかり、
剰次郎殿(土岐頼充)を聟仁取、彼早世候而後、舎弟八郎殿(土岐頼芸)へ申合、井口
へ引寄申、其外兄、事に左右をよせ、生害させ弟、或ハ毒害、或ハ隠害にて、悉相果候
、其因果歴然之事。
斉治父子及義絶、弟共く生害させ、父与及鉾、親之事取候。如此代々悪逆之体、恣ニ身
上成あかり、可有長久哉
這段文章的重點就是齋藤義龍的祖父新左衛門尉是京都妙覚寺法花坊主,趁著美濃混亂之
時,進入長井家,而非其父道三。換言之,從僧侶躍為武士的是道三之父,後來道三才鬥
倒土岐家奪取美濃