慶長4年(1599)3月、伏見島津邸において、島津忠恒が家老の伊集院忠棟を
殺害した。国許でこの報を受けた忠棟の子・忠真は自領の都城および勢力下
の12城をもって蜂起。いわゆる庄内の乱が起こった。
忠恒は、忠真領の最前線にある山田城の攻略を島津中務大輔豊久らに命じ
、6月23日、城攻めが開始された。豊久軍は卯の刻(午前6時)から午の刻
(午前12時)まで激しく攻め立てたが城方を崩せず、逆に戦意が衰えた
ところに痛烈な反撃を食らい、あろうことか城方に軍旗を奪われてしまった。
「はっはっはっ、見よ!名将家久公の子、他国にも聞こえし島津中書とて、
何ほどの事やあらん!」城方は、奪った軍旗を城内に立てて晒し物にした。
これを見た城攻め諸将は、驚愕した。「あれは…まさか?」「ば、バカな!」
「豊久様の旗が城内に?!」「なんと…何という事じゃあ………」
「早や、豊久様が一番乗りを果たされたわ!」「さすがは豊久様じゃあああ!」
「者ども、後れをとるなーっ!」「ヒャッハー!豊久様に続けえええええ!」
激しく勘違いした諸将は奮起、先を争って城へ攻め入ると、一気に本丸まで
駆け上がった。
豊久(………まぁ良か。)
その日の内に山田城を攻め落とした豊久軍は、主将の長崎休兵衛・副将の中村
兵左衛門まで討ち取る大功を立て、豊久には忠恒から感状と太刀が与えられた。
(本藩人物誌)
譯:
慶長4年(1599)3月,島津忠桓在伏見島津邸手刃家老伊集院忠棟。忠棟之子,
忠真聞報,在島津境內勢力下所屬12城池發起反抗暴動,即庄內之亂。
忠桓令島津豐久擔任前鋒攻略山田城,6月23號發起攻城戰。 豐久軍自早上6
點至中午12點間發起激烈攻勢卻未能攻破城門。 戰意低落下遭守城的敵軍反擊
,沒想到連軍旗都被奪走。
「哈哈哈、看吧!名将家久公的兒子、聞名他國的島津中書、居然也會這麼丟臉!」
守城敵軍將奪取到的豐久軍旗插在城上炫耀..
其餘一同圍城的島津諸將,看到城上插著此旗感到非常驚訝!
「這..真的嗎?」「笨、笨蛋吶!」「豊久殿下的旗子在城内?!」
「怎麼會…到底發生了什麼事………」
「好快阿、豊久殿下搶到第一了!」「真不愧是豐久殿下!!!」
「各位、不要殿後了阿!」「喝啊!快跟上!!!」
完全誤會的島津諸將個個奮發蜂起、爭先恐後的攻入城內,一口氣攻上本丸。
豊久「………嘛~也好。」
當日攻陷山田城的島津豐久軍中,主將長崎休兵衛、副將的中村兵左衛門皆立
下討取的大功。 豐久從忠桓所獲得的感謝狀跟太刀一併賜予兩將。(本藩人物誌)
註....