之前貼的這一篇提到
天正五年,白鳥與最上競相向信長示好一事
白鳥向信長獻上禮物,自稱是出羽支配者,
信長對遙遠的出羽之事不太清楚,接受了白鳥的話
最上義光知道後,派遣志村光安,也向信長表示最上家才是出羽支配者
信長才認定白鳥是假,回信稱義光為「最上出羽守殿」。
摘自最上義光歷史館文章:
天正5年(1577)ごろ、谷地の領主白鳥十郎長久が、義光を殺して出羽を自分の領地に
しようと、中央の権力者であった織田信長のところに使者を派遣し、「わが家こそ斯波
兼頼以来、代々出羽国の守護職を務めた家柄」と、鷹と馬を献上する。
信長は遠い出羽のことなど知らなかったから、その言い分を受け入れたという。
伝え聞いた最上側は、放っておけぬとばかり、こちらも信長へ接触する。この時に使
者となったのが、志村九郎兵衛光安だった。光安は、献上品として青鷹一居、駿馬一頭
、名刀工「月山」の鍛えた鑓二十本(十本とも)ともども、最上家の系図をたずさえて
上京し、信長に謁する。信長は光安に面会して、白鳥の言い分を偽りと断定、「最上出
羽守殿」として返書を与えたという。
http://samidare.jp/yoshiaki/note.php?p=log&lid=151097 最上義光歷史館
文中也說這出自江戶時代的文獻,也就是上篇提到的「義光物語」
可信度有待商榷。
因為有另外的資料顯示,
天正二年,經由信長斡旋,最上義光補任出羽守。
人物叢書《最上義光》伊藤清郎著,吉川弘文館出版
其中第三章:領国の拡大と白鳥氏.寒河江大江氏.天童氏との合戦
第46頁提到:天正二年、義光は出羽守に補任されるが、
これは信長の斡旋によるものであった。
這邊的疑問是,既然天正二年有信長幫義光斡旋補任出羽守這件事
江戶時代文獻又說,天正五年信長對遙遠的出羽之事不清楚,這邊就互相矛盾了
該書第53頁:
義光は、前述のとおり天正二年には信長の斡旋で
出羽守に補任されてはいるものの、その地位が安定していない。
信長への臣従競爭とでもいうべき状況が現出するなかで、
かつて羽州探題として出羽国内において政治的頂点にあった立場が
崩れていく現実を見なければならない、
最上家当主としての義光の揺れる心情を垣間見ることができるのではなかろうか。
顯示出即使信長於天正二年幫義光斡旋,讓他補任出羽守,但這個地位並不安定
天正五年,包含白鳥與最上都有向信長示好
但江戶時代文獻說信長對遙遠的出羽之事不清楚
這個可信度確實有待商榷。
※ 引述《Aotearoa (長白雲之鄉)》之銘言:
: 標題: [史料] 最上義光暗殺白鳥十郎,經信長許可?
: 時間: Wed May 10 23:00:27 2017
: 「獨眼龍政宗」第九集
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: 最上義光以重病為藉口,邀谷地城主白鳥十郎長久到山形城見面
: 假稱有事託付,趁機暗殺白鳥,這一段也是名場面。
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: 山形縣立圖書館在1962年開館時購入的一批史書
: 包括「最上物語一~六」、「義光物語全」、「最上盛衰記」等
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: 在2015年時,館方要將這些資料掃描數位化
: 山形大學的松尾剛次教授找到了這個暗殺事件的相關記載,與信長有關。
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