※ 引述《lucifax (虎爺:犬科動物給我滾開)》之銘言:
: 標題: [討論] 參勤交代大概需要多久的時間準備呢?
: 那如果說像是松前這種孤懸海外的藩
: 或是在深山裡面的藩
: 沒有道路可以通江戶
條條大路通江戶!
不可能沒道路通江戶啦
光是領主要參勤這件事,硬挖也要挖出一條路來
你提到的松前藩 參勤五年一次,在江戶待四個月,返國
到江戶去的詳細是這樣的:
從 松前 出航,走海路渡過津輕海峽到 三厩(津輕半島)
藩主的御座船出航時,家臣、神官、僧侶,乃至商人、名主,全部列隊恭送
接著派人到松前城後七面山上的狼煙台點狼煙,白神岬的狼煙台看到了也點狼煙
對岸津輕半島的龍飛崎,看到白神岬的狼煙,知道藩主已經出發
便去通知三厩的本陣、脇本陣,準備接待松前藩的大名行列
龍飛崎與三厩這裡,雖然是弘前藩的領地
但松前藩找了當地的獵人,給他津貼與松前藩的足輕身分,做管理狼煙台這份差事
根據江戶後期的探險家 最上徳内 在寬政二年(1790)的紀錄
這時管理龍飛崎狼煙台的是三厩宇鐵村的一位叫清八的獵人
三厩的本陣主人是山田家,獲松前藩賜名 松前屋庄右衛門,代代世襲
脇本陣是 安保幸右衛門 的宅邸,另外還有旅籠(旅店)忠兵衛 等
三厩是從蝦夷地渡海到本州來的一大據點。
為了避開津輕海峽凶險之處
松前藩的參勤交代,初期是從松前渡海到小泊,上陸後從津輕領南下
越過矢立峠進入秋田領,再從鹿角進入南部領,到盛岡後走奧州街道到江戶
寬文九年(1669)蝦夷蜂起之際,津輕的援軍是從三厩渡海到松前去
此後松前藩的參勤,就都固定渡海到三厩
三厩之後都走陸路,沿著陸奧灣到青森,被稱為松前街道
接著經過 小湊、野邊地、七戶 到盛岡去,之後一樣走奧州街道到江戶。
地圖支援:
https://i.imgur.com/hxAJa8o.png
這樣去程到江戶不曉得要幾日幾夜
但回程從江戶回松前,倒是有史料記載
松前藩家老 松前主水広時 在他的日記裡
記載了元祿五年(1692)回國的日程:(括弧內為現在的地名)
二月九日 朝六ツ半 江戸出立-粕壁泊(埼玉県春日部市粕壁)
同十日 朝六ツ出立-昼食中田-儘まま田泊(栃木県小山市間々田)
同十一日 六ツ時発-小金井昼食-宇都宮泊(栃木県宇都宮市)
(栃木県下野市小金井)
同十二日 六ツ時発-喜連川昼食-太田原泊(栃木県大田原市)
(栃木県さくら市喜連川)
同十三日 六ツ時発-蘆野昼食-白川泊(福島県白河市)
(栃木県那須郡那須町芦野)
同十四日 六ツ時発-須賀川昼食-郡山泊(福島県郡山市)
(福島県須賀川市)
同十五日 六ツ時発-本宮昼食-八丁目泊(福島県福島市松川町)
(福島県本宮市)
同十六日 六ツ時発-桑折昼食-白石泊(殿様白石城へ御出、色々御馳走)
(福島県伊達郡桑折町)
(宮城県白石市,受招待[第五代片倉小十郎 片倉村休?])
同十七日 六ツ時発-築貫昼食-長町泊(宮城県仙台市太白区)
(宮城県柴田郡柴田町槻木?)
同十八日 六ツ時発-吉岡昼食-古川泊(宮城県大崎市古川)
(宮城県黒川郡大和町吉岡)
同十九日 六ツ時発-築館昼食-金成泊(宮城県栗原市金成)
(宮城県栗原市築館)
同二十日 七ツ時発-前沢昼食-水沢泊(岩手県奥州市水沢)
(岩手県奥州市前沢)
同二十一日 六ツ時発 雪降り-鬼柳昼食-花巻泊(岩手県花巻市)
(岩手県北上市鬼柳)
同二十二日 六ツ時発-幸利昼食-森岡泊(南部侯より色々御馳走)
(岩手県盛岡市,受南部侯招待[南部重信])
同二十三日 六ツ時発-渋民昼食-沼宮内泊(岩手県岩手町沼宮内)
(岩手県盛岡市渋民)
同二十四日 七ツ時過発 - 一戸泊(岩手県一戸町)
同二十五日 七ツ時過発-三戸昼食-五戸泊(青森県三戸郡五戸町)
(青森県三戸郡三戸町)
同二十六日 七ツ時過発-七戸昼食-野辺地泊(青森県上北郡野辺地町)
(青森県上北郡七戸町)
同二十七日 七ツ時発-小湊昼食-青森泊(津軽越中守様より御使者)
(青森県東津軽郡平内町小湊)
(青森県青森市。津軽越中守[津軽信政]派遣使者)
同二十八日 七ツ時過発-蟹田昼食-平館泊(青森県東津軽郡外ヶ浜町平館)
(青森県東津軽郡外ヶ浜町蟹田)
同二十九日 六ツ時発-今別-夕七ツ時三馬屋着(小鹿喜右衛門宅立ち寄り、御馳走有)
(青森県東津軽郡今別町)
(三馬屋:青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩
在 小鹿喜右衛門 宅邸接受招待)
晦日 休息
三月一日 風下り、御風待
三月二日 西風、同
三月三日 同合風、同
三月四日 東風天気能御船中万端別条無く、昼四ツ時過松前へ御安着、御社仏参。
(午前十時抵達松前)