※ [本文轉錄自 WarringState 看板 #1KtUirSM ]
這節目是這樣的,名稱是:
「くりぃむしちゅーの歴史新発見 信長59通の手紙を解読せよ!」
http://www.ntv.co.jp/nobunaga-tegami/ 節目官網(http://goo.gl/d5wnAC 影片連結)
是日本電視台NTV 昨天放送的兩小時特別節目
是配合「永青文庫」 http://www.eiseibunko.com/ 官網
(東京都文京區 昔為熊本藩細川家下屋敷,
現為收藏細川家眾多文書、寶物之美術館)
的特展:「重要文化財指定記念「信長からの手紙」
~細川コレクションの信長文書59通、一挙公開!~ 」
特展內容是細川家所收藏,織田信長寫給細川藤孝的五十九封書信。
節目內容圍繞著這些信長的書信進行,
從1964年細川家收藏的自戰國時代到江戸時代數百年的250萬件文書資料被發現
四十五年後,2008年,才由熊本大學的稲葉継陽教授開始帶領團隊進行解讀
這五十九封信長寫給細川藤孝的書信也包含在內,全部被列為重要文化財。
解讀出的事實包括:
信長直到本能寺之變的一個多月前,仍十分信賴光秀,
在寫給藤孝的信中提到:進攻毛利的具體事項,再由光秀向你告知。
另外還包括,本能寺之變後,明智光秀寫給細川藤秀,尋求支持的「明智光秀覚条々」
以及清洲會議後,秀吉寫給細川藤孝,要求雙方互不隱瞞的「羽柴秀吉血判起請文」
以下是詳細介紹,日文好的版友希望可以幫忙簡單翻譯一下:
http://toyokeizai.net/articles/-/60225
2013年、永青文庫(東京都文京区)が所蔵する細川家文書のうち、266通が国の重要文化
財に一括指定された。これを記念して、永青文庫の冬季展「信長からの手紙」では、細
川家文書の中核をなす織田信長の書状59通を、前期、後期に分けて全点公開している。
併せて「明智光秀覚条々」、「羽柴秀吉血判起請文」なども展示され、戦国時代から、
信長、秀吉の天下統一への動きに細川家がどう係ったのか、手紙から読み解く展覧会に
なっている。また、日本テレビ放送網は2月12日(19時~20時54分)、関連の特別番組
「くりぃむしちゅーの歴史新発見 信長59通の手紙を解読せよ!」を放送する。
信長と細川家の深い関係
信長の手紙は大名家や寺院などに伝来しているが、細川家には59通と、最も多くが伝わ
っている。そこには信長自筆の一通も含まれている。信長と細川家はどのような関係だ
ったのだろうか。
細川家初代藤孝(出家後は幽斎、1534~1610年)は、もともと室町幕府13代将軍・足利
義輝の側近だった。義輝が暗殺されると、藤孝らは奈良の興福寺に幽閉されていた弟の
義昭を救い出し、信長の支援を得て京都に入る。義昭は十五代将軍となった。
いわば連立政権が成立したが、信長が義昭を思いのままに動かそうとしたため、両者は
対立。藤孝はこのまま義昭に仕えるか、信長側に転じるかの選択を迫られた。
元亀4(1573)年、2月26日、岐阜にいた信長が藤孝に送った朱印状には、京都と畿内の
情勢を知らせてくれたことへの礼が述べられ、藤孝がすでに信長と親密な関係を築いて
いたことがうかがえる。2人は共に40歳だった。
結局、藤孝は信長と進む道を選ぶ。同年7月10日、信長は藤孝宛の朱印状で彼の忠節を評
価し、山城国のうち桂川から西の地域の支配権を保障した。
藤孝の居城、青龍寺城(現在の京都府長岡京市)のある地域であり、京都、大坂、丹波
を結ぶ交通の要所でもあった。
熊本大学文学部附属永青文庫研究センター長の稲葉継陽氏は、「細川家の近世大名権力
としての出発点を示す記念碑ともいえる文書」と解説する。その8日後、義昭は信長の軍
に包囲され、京都から追放される。義昭に従った家臣たちは没落していった。
こうして信長配下の武将となった藤孝は、一向一揆との戦をはじめ、各地を転戦するこ
とになる。信長からは、戦功をたたえる文書、「感状」が届けられた。
15歳の細川家二代忠興には直筆の手紙
信長の手紙のほとんどは、「右筆」と呼ばれる秘書役が代筆している。現存する約800通
のうち、唯一、信長が自ら筆を執ったと言えるのが、天正5(1577)年10月2日、藤孝の
息子、細川家二代忠興(出家後は三斎、1563~1645年)に宛てた手紙だ。信長の側近、
堀秀政が「信長公が自分で書かれた」という添状をつけていることから真筆とされ、信
長の筆跡を判断するときの基準となっている。
その内容は、信長に反旗をひるがえした松永久秀を討ちに行った忠興に対して、「堀秀
政から戦で手柄を立てたと報告を受けた。油断しないでこれからもがんばってほしい」
と忠興の活躍を喜び、励ましている。当時の忠興は15歳。同年2月に初陣を果たしたばか
りだった。信長にとっては自分の子供のような存在だったのかもしれない。
翌年、忠興は信長の側近となり、信長の命により、明智光秀の三女、玉(後のガラシャ
)と結婚した。ちなみに、同じ討伐軍に参加した父の藤孝にも信長は感状を送っている
が、こちらは右筆が書いている。
信長からの手紙は、戦に向かう藤孝を鼓舞するもの、軍道整備の指示、藤孝父子をねぎ
らって鯨の肉を分け与えることなど、内容は様々だが、信長の激しい気性が垣間見える
ものも少なくない。
とくに武田軍に対する恨みは深かったようで、長篠合戦の直前の天正3(1575)年5月15
日の黒印状には、「自分たちは敗北したことがない。これは天命であるから、武田軍を
根切にする」と書かれている。「根切」とは、根絶やしの意味だ。合戦に勝利した後に
は、「武田勝頼の首はまだ見ていないが、川に浮かんでいる武将の中にいるかもしれな
い。近年のうっぷんが晴れた」と述べている。
信長は美濃を支配下に置いた永禄10(1567)年頃から、書状に「天下布武」の印を押す
ようになった。武力を広めて天下を統一する、という意気込みが感じられる。この印判
を朱色で押したものを「朱印状」、黒で押したものを「黒印状」と呼ぶ。領地を与えた
り、軍事上の義務を命じたりするときは朱印状が使われ、一回限りの命令や返答には黒
印状が使われる傾向があるというが、明確な基準はわかっていない。現存する信長の手
紙では黒印状のほうが多い。
なぜ細川家に多くの手紙があるのか
これらの細川家文書は、2014年の秋、熊本県立美術館の「重要文化財指定記念 細川コレ
クション 信長からの手紙」展で一足先に公開された。展覧会の準備の過程で、59通もの
信長の文書が細川家に伝来した理由について、新たな事実が判明したという。
稲葉氏が展覧会の図録に詳しく書いているが、これまでは、信長の家臣だった家の多く
が没落し、文書が失われたのに対して、細川家は長く存続したから多くの書状が残った
と考えられてきた。しかし、それだけではなく、細川家三代忠利(1586~1641年)が、
幽斎の末子の長岡休斎らが持っていた書状を熱心に収集し、晩年になってまとまった数
が熊本に集まった。それらが今日に伝わったのだという。
最後に信長以外の文書を二点見てみよう。
明智光秀は信長からの信頼が厚く、藤孝以上に大きな権限を与えられていた。例えば、
「本能寺の変」の約1カ月前、信長から藤孝のもとに、毛利攻めの準備をするようにとの
書状が届く。そこには、「くわしくは光秀から伝える」と書かれ、光秀の指揮のもとで
藤孝が動くことが前提にされていた。
「本能寺の変」にどう対応したか
その明智光秀が天正10(1582)年6月2日、主君信長に反旗をひるがえし、本能寺の変を
起こす。信長の死を知った藤孝・忠興父子は、すぐに剃髪して信長への弔意を表した。
藤孝は隠居して出家し、忠興は光秀の娘である妻の玉を丹後の味土野(現在の京都府京
丹後市)に蟄居させた。
本能寺の変の7日後、光秀が藤孝に送った申し入れ書が「明智光秀覚条々」である。光秀
は、姻戚関係にある藤孝・忠興父子は、当然、自分の陣営に入るものと思っていた。そ
して次の3カ条を提案した。
1条目は、「髻を切ったことに一時は立腹したが、思い直した。御を願う」。2条目、3条
目は将来に向けた構想で、「父子が上洛して自分に味方するなら、丹後の他に摂津を、
もし希望するならそれに加えて若狭の支配権をも分与する。自分の行為は忠興などを取
り立てる目的でなされたもので、近く畿内・近国の情勢が安定したら、自分の子息や忠
興の世代に畿内支配権を引き渡す所存である。決して別儀はない」と述べている。
藤孝と忠興は、主君信長を討った叛逆者である光秀にくみすることはなかった。そして
本能寺の変の11日後、光秀は山崎の戦いで秀吉軍に破れ、歴史の舞台から姿を消す。
一方の羽柴秀吉は、6月27日の「清州会議」で政治的主導権を握る。そして本能寺の変か
ら約1カ月後の7月11日、藤孝父子に起請文を送った。起請文とは、神仏に誓いを立てて
約束に偽りがないことを記した文書。秀吉は、藤孝父子が光秀にくみしなかったことを
ほめ、入魂を誓った。花押の上に秀吉の血判が見える。ここから時代は秀吉の天下統一
へと動いていく。
展示室には、戦国武将たちの書状がところ狭しと並ぶ。信長直筆の一通からは、心の動
きまで伝わってくる。天下統一を目指した信長、秀吉のもとで、肥後細川家の祖となる
細川藤孝がどんな役割を果たしたのか、手紙から浮き彫りにする展覧会といえるだろう
。