「自由にどこにでも行ける」としても、全ての場所に行き尽くすとは、限りません。
たとえ自由にどこにでも行ける状態であっても
家から一歩も出ないまま、ずっと過ごす人もいます。
どこにも行かないのも自由であり、どこかに出かけていくのも、自由です。
自由とは、するもしないも、自由、ということになります。
即使自由地哪裡都能去,但也不一定能去盡所有的地方。
而也有即使處於那種自由的狀態也不踏出家門一步就那樣過生活的人。
哪都不去也是自由,哪裡都去也是,自由。
所謂的自由就是做或不做都是自由。
ゆえに、どんなに自由であってもその自由度を試さぬままにいてしまうことも、
けっこう、あるものではないかと思うのです。
「これはこうするものだ」「これが一般的だ」「これが常識だ」「これが平均だ」
「こうするのが賢いやり方だ」などという「情報」を貯めるだけ貯め込んで、
そう「しない」という選択肢があることに、ずっと、気づかずにいてしまうのです。
也因此即使很自由也不去測試到底多自由這種事情不是很常見的嗎?
這個要這樣做才對、這很普通、這是常識吧、這樣做才是聰明的作法
諸如此類僅僅是資訊的累積,但我們卻常常忘記還有不那麼做的選項。
すぐそこにある自由に気づかずにいるという状態は
多分、誰の身の回りにも存在するのではないでしょうか。
だとすれば、今週あなたは自分の世界にある新しい自由を
少し工夫して、見つけることができるかもしれません。
「そうか、こっちにも行けるんだ」というふうな、
新しい道を見つけるワクワク感が漲る瞬間が
今週、巡ってくるのではないかと思います。
近在眼前的自由反而注意不到,
這種狀態大概不管在誰身上都曾經發生過吧。
但即使如此這禮拜你也許只要花一些功夫就可以發現在自己世界裡的新自由。
「原來這邊也能走啊」像這樣發現新路徑的雀躍感湧現的瞬間在這禮拜會常常發生哦。