関ケ原の合戦の呼び名は当初、「青野カ原の合戦」だった?--。京都市右京区の陽
明(ようめい)文庫(名和修文庫長)に保管されていた古文書「前久(さきひさ)書状
」に合戦直後の様子が詳細に記され、戦いの場所が「関ケ原」ではなく「青野カ原」と
書かれていたことが分かった。合戦に関する戦記物などは多数現存するが、合戦直後の
1次史料は非常に少なく、専門家は「当時の状況が分かる第一級の史料」としている。
調査した石川県立歴史博物館館長の藤井譲治・京都大名誉教授(日本近世史)が2月
、陽明文庫講座(東京大学史料編纂所・科研費プロジェクト主催)で発表した。
藤井教授によると、前久書状は戦国時代の公家・近衛前久(1536~1612年)
が記した。第二次世界大戦前に編集された「編年史料稿本」に書状の一部が収録されて
いたが、書状全体は公開されていなかった。「陽明文庫叢書(そうしょ)」の編集のた
め、書状を調査していて確認した。
前久書状は合戦5日後の慶長5年9月20日に書かれたもので、徳川家康が江戸城を
出発した日時や小早川秀秋の寝返りなど14項目にわたり、かなり正確に記述されてい
たことが判明した。
藤井教授は書状に「青野カ原ニテノ合戦」と記載されていたことに着目。青野カ原は
南北朝時代の古戦場として当時から知られていたことや、関ケ原から東北東約8キロの
地点にかつて「青野村」(現・岐阜県大垣市青野町)があり、毛利家一族の吉川広家の
自筆書状や「慶長記略抄」の狂歌にも関ケ原の戦いが「青野か原」と記載されていると
指摘している。また合戦の当事者である家康が合戦当日に伊達政宗に書いた書状で「今
十五日午刻、於濃州山中及一戦」と別の表記がされていることなどから、「当初は関ケ
原の戦いという呼び方ではなかった」と推測している。
「天下分け目の合戦」として定着している関ケ原の合戦だが、「関ケ原」の記述が出
現するのは主に同年10月以降の島津家の古文書から。藤井教授は「情報量が豊富な今
回の史料が出てきたことで、関ケ原の合戦の認識が変わる可能性がある」としている。
【岡崎英遠】
<関ケ原>戦いの場所は「青野カ原」 合戦直後の文書に記載(毎日新聞) - Yahoo!
ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160404-00000007-mai-soci
似乎有新史料發現「關原之戰」戰場其實是在關原東北東8公里左右的青野村,
「關原之戰」要改叫「青野原之戰」了嗎?