三月二十九日
廿九日、朝立行けは、和田崎とて町有、其次ニ左方ニ高山とて
ぬたの城有、こはい川殿の御坐所と所の人いへり、其麓に
ぬた川とて渡賃、猶行て七日市とて有、次ニ新町有、其邊ニ
出川有、おの々はたニ成て渡候、其むかひニて有所、一閑より
餅たへさせられ候、それを片手ニ持、くひのやちたひの道す
から、備後の内三原の町又左衛門といへる者の所へ一宿、
三月二十九日,早上出發
有小鎮叫和田崎,接著左方的沼田有新高山城
聽說是小早川殿的居城(小早川隆景 原文:こはい川殿)
在這山下付了船資渡過沼田川,再往前行是叫做七日市的小鎮
接著是新町,這附近又有一條小河,每個人都脫了衣服,裸身涉水過河
過了河之後,一閑(隨從)拿了塊餅給我
就單手拿著餅,一邊走一邊吃
這天在備後國三原的又左衛門那裡住宿。
(註:新高山城 位於廣島縣三原市本鄉町)
四月一日
卯月朔日打立行けは、やかてミはらの城有、次に左方ニ高
盛といへる城ミへ侍り、猶行て高丸といへる城有、鬼なと
も住けんとおそろしくて、今津の町四郎左衛門といへる者の所ニ一宿、
四月一日,出發後就到了三原城(小早川隆景勢力)
接著左方能看到高盛城(不詳)
再往前行,有一座叫做高丸的城(不詳)
感覺像是連惡鬼都不會去的危險的城
這天在今津一位叫四郎左衛門那裡住宿。
(註:三原城 位於廣島縣三原市)
今津 廣島縣福山市今津
四月二日
二日打立、山田といへる町を打過、やかて山田の城有、行々
て備後のともニ着、善左衛門といへる者の所に徊らひ、舟よそ
ひの間ニ其邊一見候、ともの城有、それより出舟候へは、
島々數をしらす、其中をこきとをり、左方ニ備中.備
前、右方ニ四國のあハと遙にみえ、それよりしはくニ着、
東次郎左衛門といへるものゝ所へ一宿、
四月二日,出發經過叫山田的小鎮,有山田城(一乗山城 城主渡辺氏 毛利支配下)
接著抵達備後的「鞆」(とも),前往一位叫善左衛門那裡
在他準備船隻的同時,在附近瀏覽,有一座「ともの城」(大可島城 村上水軍勢力)
接著搭船出發,在數不清的小島之間划船前進
左方是備中與備前,右方能遠望四國
接著抵達塩飽(しはく 塩飽諸島),在東次郎左衛門那裡借宿。
(註:山田 廣島縣福山市熊野町一帶)
鞆 廣島縣福山市鞆の浦
大可島城 位於鞆の浦的一座島城
塩飽 位於瀨戶內海上,香川縣與岡山縣之間的群島
四月三日
三日しあく見めくり候、
四月三日,塩飽一日遊。
四月四日
四日、しはくの内かうといへる浦を一見、それよりしは
くの人躰福田又次郎といへり、其舘にて鞠遊あり、
不存なから無方鞠かと見及候、いつれも足ハ天に
あかり、其外見苦敷事ハ申はかりなく候、
四月四日,在塩飽本島的甲生港口附近瀏覽
接著到塩飽當地人福田又次郎的居館去,踢蹴鞠
我不知道規則,所以踢「無方鞠」(不拘規則的踢法)
我的腳總是往上踢去,其他還有很多見笑的事,就不多說了
(註:甲生 香川縣丸龜市本島町甲生)
福田又次郎 塩飽水軍笠島城主
3/29~4/4 路線示意圖:https://i.imgur.com/8juXvVV.png
https://i.imgur.com/UFSuMfr.png