村上版錢德勒七大長篇完工寄稿文

作者: nono0520 (和米基喝杯咖啡)   2018-01-05 20:49:09
從2007年《漫長的告別》開始,村上春樹花了約10年的時間,已經默默地將錢德勒所有長
篇翻完了。之前日本翻譯錢德勒長篇最多部的人是清水俊二,他一共譯了五部半,《高窗
》還沒譯完就去世了(戸田奈津子補譯),還有一部《大眠》清水俊二沒有翻譯。
村上春樹是日本第一位譯完錢德勒全部長篇的人。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25043040V21C17A2BC8000/
普遍にして固有のヴォイス 村上春樹氏寄稿(上)
チャンドラー長編7作 翻訳終えて
2018/1/3 18:00 日本経済新聞 電子版
作家の村上春樹氏が10年がかりで取り組んできた米作家レイモンド・チャンドラーの長
編全7作品の翻訳が完結した。ハードボイルド小説というジャンルを切り開いたチャン
ドラーは多くの作家に影響を与え、現代文学の古典として世界で読み継がれている。こ
の作家に深く傾倒してきた村上氏が、翻訳を終えた今思うことを寄稿した。2回にわた
って掲載する。
●   ○
レイモンド・ソーントン・チャンドラーが小説を書き始めたのは、ほとんど人生の後半
に入ってからである。最初に単行本として出版された小説は『大いなる眠り』(1939年
)だが、そのとき彼は既に50歳を過ぎていた。波瀾万丈(はらんばんじょう)……とま
ではいかずとも、あちこちで様々にカラフルな人生経験を積み、いくつもの成功や失敗
をくぐり抜け、すったもんだの末になんとか小説家として身を立てられるようになった
、というところだ。
当時のアメリカは不況時代のまっただ中にあり、それがどのような業種であれ、人が生
計を立てていくのは生やさしいことではなかった。しかしそれにしても50歳で本格的な
作家デビューというのは、異例な遅咲きだったと言ってもいいだろう。
それから1959年に70歳で亡くなるまでのあいだに、チャンドラーは全部で7冊の長編
小説を出版した。どれも私立探偵フィリップ・マーロウを主人公とし、大都市ロサンジ
ェルスを主な舞台とする物語である。多くの人はその小説スタイルを「ハードボイルド
・ミステリー」と呼んだ。パルプ・マガジン向けに短編小説も数多く書いてはいるが、
それらは「書き飛ばされた」とまでは言えずとも、質的には長編小説に遠く及ばず、チ
ャンドラーの名が人々に記憶されているのは、やはり圧倒的に「フィリップ・マーロウ
もの」に負うところが大きい。
●   ○
チャンドラーの小説は最初のうち、なかなか世間に広く受け入れられなかった。ミステ
リーという分野そのものが当時は一段低く見られていたということもあり、出版社も彼
の作品をうまくマーケットに乗せることができなかったように見える。そのためチャン
ドラー作品はアメリカ本国において、一部の読者や批評家には高く評価されるのだが、
思うように部数が伸びないという時期がかなり長いあいだ続いた。当時の一般読者が求
めていた娯楽読み物と、彼が提供していたオリジナリティー豊かな作品とのあいだに、
ある種の乖離(かいり)が存在したということなのだろう。
そのことはチャンドラーを苛立(いらだ)たせ、往々にして彼の自信を揺らがせ、(も
ともとそういう傾向はいくらかあったにせよ)喧嘩(けんか)っぱやくさせたし、深酒
をするようにもなった。また一時期、収入を安定させるために、ハリウッドに出向いて
シナリオ書きに精を出さなくてはならなかった。そこで『深夜の告白』とか『見知らぬ
乗客』といった優れた脚本を残し、アカデミー賞にもノミネートされ、それなりの成功
を収めたわけだが、そこには映画業界特有の制約もあり、人間関係のストレスも多く、
日々身をすり減らせることになった。小説家チャンドラーを評価するものとしてはやは
り、その時期を「残念な回り道」と呼ばないわけにはいかないだろう。
しかし晩年になるにつれて、彼の評価はどんどん高まり、とくに『ロング・グッドバイ
』は彼を第一級の作家として位置づける重要な作品となった。ようやく世間がチャンド
ラーに追いついてきた、と言っていいかもしれない。一連の「フィリップ・マーロウも
の」はロングセラーとして今でも着実に版を重ね、それらの作品は一種神話的な色彩さ
え帯びるようになった。
あとに続く多くの作家がチャンドラーの影響を受け、その文体やスタイルを踏襲するよ
うになった。フィリップ・マーロウは単なる小説の主人公であるのみに留まらず、ひと
つの象徴となり、ライフスタイルの基準となり、都市生活の発する普遍にして固有のヴ
ォイスとなった。
●   ○
今回出版したこの「水底(みなそこ)の女」で、僕(村上)はチャンドラーの残した長
編小説7作を、すべて翻訳し終えたことになる。僕より前に、同じ早川書房で清水俊二
さんが6作を訳しておられるが(『大いなる眠り』は当時、版権の都合で翻訳すること
ができなかったようだ)、チャンドラーの7つの長編を個人訳で揃(そろ)えるのは、
僕が最初ということになる。恥ずかしながら……と言うべきなのだろうが、同時にまた
、まことに光栄なことだとも感じている。
そして僕にとってなにより嬉(うれ)しかったのは、この翻訳作業をしっかりと隅々ま
で楽しみながら、やり遂げられたことだ。もちろん翻訳自体はずいぶん骨が折れたけれ
ど、それでもそれはとても心愉(たの)しい、そして意味のある骨の折れかただった。
チャンドラーのドライブ感溢(あふ)れる見事な、しかしあちこちで頑固な癖が顔を見
せまくる独特の文体を、そして彼の描く当時の大都市の風俗を、生きた今日の日本語に
置き換えていくのは──言い訳するのではないが──なかなか簡単なことではなかった
。しかし簡単ではないからこそ、またやりがいもあるというものだ。
●   ○
最初に『ロング・グッドバイ』を翻訳出版したのが2007年で、それから10年かけて、自
前の小説を書いたり、他の作家の翻訳をしたりする合間に、少しずつ暇をみつけてはチ
ャンドラーの翻訳作業を続けてきたわけだが、そのあいだ「もうやめちゃおうか」と匙
(さじ)を投げたくなるようなことは幸いにして一度もなかった。出版社から一度も催
促されることなく、自分のペースでこつこつと自主的に翻訳を続けてきた。
どうしてか? チャンドラーの作品に終始一貫して強く惹(ひ)かれていたから……と
しか言いようがない。そして7作全部を訳し終えた今、あたりを見回してほっとすると
同時に、「ああ、これでおしまいか。もうこれ以上訳すべき作品はないのか」と思って
、なんだかがっかりしてしまうことになる。チャンドラー・ロス、とでも言えばいいの
だろうか。そういえば、故レイモンド・カーヴァーの残した全作品を訳し終えてしまっ
たときにも、それとだいたい同じような感慨を持ったものだ。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO25043120V21C17A2BC8000/
準古典小説としてのチャンドラー 村上春樹氏寄稿(下)
長編7作の翻訳終えて
2018/1/4 18:01
日本経済新聞 電子版
翻訳の仕事を始めたころから、チャンドラーの翻訳は「いつかは挑戦したいものだ」と
目標に置いていたのだが、既に先人たちの優れた翻訳も出ていることだし、もっと歳を
重ね、翻訳家として実力をつけてからやればいいだろうと思っていた。他に手をつけな
くてはならない新しい世代の作家の作品も山積していたし、まあ急ぐことはない。
でもある日、早川書房から「村上さん、『ロング・グッドバイ』の新訳をする気はあり
ませんか?」と打診を受けて、まさに渡りに船という感じで、「いいですよ。やりまし
ょう」と引き受けた。それが10年前のことだ。その頃には翻訳家としてのキャリアも(
十分に、とは言えないまでも)それなりに積んでいたし、チャンドラー作品にとりかか
るには年齢的にみても良い頃合いかもしれないと思った。
●   ○
そして力を尽くして『ロング・グッドバイ』を翻訳したわけだが、僕の新訳に対する風
当たりは思いの外きつかった。まずだいいちにこの作品には清水俊二さんの『長いお別
れ』という優れた翻訳が先行してあり、多くの人がその訳書を通してこの作品に親しん
でいた。
これは野崎孝さん訳の『ライ麦畑でつかまえて』(拙訳『キャッチャー・イン・ザ・ラ
イ』)についても言えたことだが、このようにいわば神格化された優れた既訳があると
きには、新訳は厳しい逆風を受けることになる。それらの訳書を読んで感銘を受けてい
た読者は、自分にとっての神聖な領域に、見知らぬ人間に土足で踏み込まれたような不
快感・抵抗感を抱いてしまうからだ。その気持ちはわからないでもない。僕だってやは
り野崎さんの『ライ麦畑』や清水さんの『長いお別れ』で育ってきた世代だから。
ただ翻訳というものは、経年劣化からは逃げられない宿命を背負っている。僕の感覚か
らすれば、おおよそ半世紀を目安として、ボキャブラリーや文章感覚のようなものにだ
んだんほころびが見え始めてくる。僕が今こうしてやっている翻訳だっておそらく、50
年も経てば「ちょっと感覚的に古いかな」ということになってくるだろう。
だから後世に残す価値のある優れた古典作品は、ある程度の歳月を経た時点で、翻訳に
手当をする必要性が出てくる。家の補修と同じだ。もちろん翻訳者自身が手入れをでき
ればいちばんいいわけだが、その方が残念ながら亡くなっているような場合には、新た
な訳を用意する必要が生じる。
●   ○
アメリカの作家ジョイス・キャロル・オーツはある批評の中でこのように語っている。
「チャンドラーの散文は、自意識を超えた雄弁の高みに達している。そして我々は、自
分が前にしているのが、ただのアクションものの作家ではなく、確たるヴィジョンを持
った一人の文章家であり、一人の作家なのだという事実を前にして、思わず襟をただす
ことになる」。
そういえば、カズオ・イシグロ氏もチャンドラーの小説のファンであり、彼と顔を合わ
せるとよくチャンドラーの話をする。僕がチャンドラーの長編小説をいくつも訳してい
るというと、「それは素晴らしい」と喜んでくれた。彼がチャンドラーのファンだとい
う気持ちはよく理解できる。イシグロは、様々なタイプの物語スタイルを精緻に換骨奪
胎していくことをひとつのテーマとして、小説を書き続けている作家であり、チャンド
ラーの小説スタイルが彼を惹きつけるのは、当然すぎるほど当然のことなのだ。
このように、チャンドラーの影響を受けているのは、ミステリー分野の作家だけには留
まらない。多くの純文学作家(というのもいささか古くさいが、他に言い方を思いつか
ないので)が彼の小説スタイルや文体に関心を示し、また影響を受けている。そういう
意味においては、チャンドラーの遺(のこ)した作品は「ハードボイルド・ミステリー
」という狭義のジャンルを超えた、文学的な「パブリック・ドメイン(文化的共有資産
)」の域に達していると言っても差し支えないだろう。「すべての分野において、最良
のものは、それぞれの固有の領域を超える」とゲーテは述べているが、まさにそのとお
りだ。
●   ○
そういう観点から、僕は彼の7つの長編小説を、ミステリー小説というよりはむしろ「
20世紀が遺した準古典小説」として捉え、様々な読者がそれぞれ自由な読み方ができる
ように、できるだけ言葉の幅を広くとって翻訳するように心がけた。そういうところは
、既訳とはいくぶん肌合いを異にしているかもしれない。清水さんの「正調ハードボイ
ルド」訳とも少し違うし、田中小実昌さんの自由闊達な「語り訳」とも少し違う、僕な
りのチャンドラー訳がそこにあると思う──あればいいと思う。そのうちのどれを選ぶ
かはもちろん読者の自由であり、文芸の世界にあってはそういう選択肢の豊かな存在こ
そが、何にも増して大事な意味を持つことなのだ。
これからもチャンドラー作品が、多くの新しい読者の手に取られていくことを切に願っ
ているし、僕の翻訳がその一助になれば、それに勝る喜びはない。

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