台
湾は、多種多様な歴史を背負ってきたから、人々がそれぞれ多岐なイデオロギーを抱えている。したがって、日本時代から、たくさんの文学や芸術作品はその芸術的価値より、そのなかに表出しているイデオロギーが先に検討され、イデオロギーの問題が作品そのものの真価を凌ぐことはしばしばである。そして僕はこれについての研究をやっている人間だから、作品のなかのイデオロギー問題を解読しなければいけない場合はよくある。今台湾での話題作「KANO」について、演出である魏徳聖監督の今までのいちばん長い監督作は、新鮮なネタではないものの、抗日
意識がいちばん濃厚な「セデック・バレ」である。それでも足りないのか?毎作が抗日意識があふれるわけではないだけで、「KANO」はただ、1931年時点の忘れられかけた野球物語をありのままに映画化した作品で、日本による植民地支配への批判を強調していないだけで、「日本に媚びる」と批判されるのは、一体なぜだ?